第6章 彼女らしくない
杉浦杏奈の詰問を受け、杉浦美雪の顔色がさっと悪くなった。次の瞬間、小さく震えだし、そのまま力が抜けるように崩れ落ちる。
「美雪? 美雪っ!」
杉浦三芳が杉浦杏奈を押しのけ、娘を強く抱きしめた。
けれど、杉浦美雪から反応はない。指先だけが、なおもシーツをきつく掴んでいる。
杉浦正弘はすぐさまベッド脇のナースコールを押した。
医師たちはほどなく駆けつけ、その場で慌ただしく診察を始める。
「杉浦さんは感情の揺れが大きすぎて、ストレス性の失神を起こしています。今は休養が必要です」
医師はそう告げてから、杉浦家の面々を見回した。
「どうかこれ以上、刺激を与えないでください」
杉浦正弘が頷く。
「全員、外へ出ろ。美雪の邪魔をするな」
ほかの者たちは次々と病室を出ていった。最後尾を歩く杉浦杏奈の顔には、ほとんど表情がない。
杉浦秀明はふと振り返り、彼女を見た。視線がそのまま、傷ついた手で止まる。
胸が、きりっと痛んだ。
「杏奈、先に手当てしよう」
そばまで歩み寄り、やわらかな声でそう言った、その直後。
どんっ!
慌ただしく駆け込んできた男に、杉浦杏奈はまともにぶつかられ、そのまま床へ倒された。
藤原智彦は彼女を一瞥すらせず、まっすぐ病室へ入っていく。
「鈴木先生、美雪はどうなんです?」
「智彦、お前、杏奈にぶつかっただろ!」
杉浦秀明は慌てて杉浦杏奈を抱き起こした。
そこでようやく、藤原智彦が振り返る。
怪我をした杉浦杏奈の姿を認めた瞬間、その目の奥にわずかな嫌悪がよぎった。だが次の瞬間には、ひどく焦った顔を作ってみせる。
「杏奈、ごめん。君が病室の中にいると思ってたんだ。こっちは急いでたから……」
杉浦杏奈は胸の内で冷たく嗤った。
さっきまで、彼はたしかに「美雪」と名前を呼んでいたのだから。
けれど顔を上げた彼女は、ちょうどいい具合の心細さを浮かべる。
「私は大丈夫。それより美雪のほうが危ないの。また気を失って……先生も、これ以上刺激しちゃいけないって」
藤原智彦は拳を握りしめ、怒りを押し殺した。
「そうか……じゃあ、君は先に帰って着替えたほうがいい。風邪でも引いたら大変だし、ここは俺が代わりに見てるから」
一刻も早く杉浦家の人間をこの場から遠ざけたい――そんな本音が透けて見える。
杉浦美雪に何があったのか。なぜ計画どおりに動かなかったのか。自分の目で確かめなければならないのだろう。
杉浦杏奈は見抜いていても、あえて口にはしなかった。小さく頷くだけにとどめる。
「じゃあ、お願いするね」
従順なその様子に、藤原智彦はようやく安堵したようだった。
そうだ。彼女はもともとこういう女だ。自分が何を言おうと、逆らわず従う。
見目がいいだけの、扱いやすい飾り物。
藤原陽向は、藤原智彦が病室へ入っていく背を見送り、わずかに眉をひそめた。
「よし。秀明、啓介、帰るぞ。まだ宴の途中だ」
それから杉浦杏奈へ視線を向ける。
「杏奈、自分で手当てできるか?」
杉浦杏奈は静かに頷いた。
泣きもせず、騒ぎもせず。らしくない、と杉浦陽向は一瞬だけ思う。
だが今日の彼女の振る舞いを思い返し、深くは考えなかった。もともと杉浦杏奈は細かいことを気にしない性格だ。これくらいの怪我なら、自分で何とかするだろう。
客はまだ帰っていない。杉浦夫妻も屋敷へ戻らなければならない。
結局、もう誰も杉浦杏奈を気にかけなかった。
彼女は手当てをせず、そのまま帰宅した。
使用人たちの妙な視線も気に留めず、まっすぐ二階へ上がる。寝室の奥の浴室に入り、鏡の前で立ち止まった。
映っていたのは、ひどく無惨な自分だった。
髪は乱れ、頬に貼りついている。顔色は死人のように青白く、唇は乾いてひび割れていた。目の縁はうっすら赤い。首には広い範囲に青紫の絞め跡が残り、灯りの下でなおさら痛々しく見える。
視線を落とす。
右手の親指と人差し指のあいだの傷は、すでに血が固まり、浮いたかさぶたの端から薄い桃色の新しい肉がのぞいていた。
杉浦杏奈は無意識のうちに、そのかさぶたを爪で剥がした。
ぷつり、とまた傷が開く。
白い洗面台へ、血が落ちる。
一滴。二滴。三滴。
鋭い痛みが電流みたいに指先から背筋へ駆け上がり、そのまま脳の奥まで突き刺さった。
杉浦杏奈は目を閉じる。
痛みが全身にじわじわと広がっていく。
その痛みだけが、今にも暴れ出しそうな感情を少しずつ押し沈め、身体の奥に棲む怪物を、もう一度檻の中へ押し戻してくれた。
ふう、と息を吐く。
そして再び目を開け、鏡の中の女を見つめた。
傷だらけで、手は血にまみれ、今にも壊れそうな女。
それでも彼女は、ただゆっくりと呼吸を整える。
傷口からはまだ血がにじんでいたが、包帯を巻く気にはならなかった。
シャワーを浴び、清潔な寝間着に着替える。ベッドの縁に腰かけ、自分の手を長いこと見つめていた。
そのとき、扉がノックされた。
「杏奈、俺だ」
杉浦啓介の声だった。
杉浦杏奈は感情を引っ込め、立ち上がって扉を開ける。
杉浦啓介の手には、いくつもの袋が提げられていた。ついさっきまで店を回っていたのだと分かる。
彼は杉浦杏奈の体に残る痣を見て、気まずそうに目をそらした。
「いろいろ持ってきた」
薬局の袋。高級ブランドのギフトバッグ。さらに、有名な洋菓子店の箱まである。
杉浦杏奈は何も言わず、ただ身を引いて中へ通した。
杉浦啓介は部屋へ入り、荷物をテーブルに置く。
「杏奈。今日、病室で……悪かった」
ぽつり、と続ける。
「何も聞かずに、お前を無理やり連れて入ったのは間違いだった」
視線が彼女の手の傷に落ちる。
「手……大丈夫か」
声は少し掠れていた。
「平気よ」
杉浦杏奈は手をそっと背中へ隠した。
杉浦啓介はしばらく黙り込む。
やがて、ふいに話題を変えた。
「お前、昔は水が平気だったの、覚えてるか」
杉浦杏奈の動きが、ほんのわずかに止まる。
「お前が五歳のとき、俺、こっそり海に連れていったんだ」
杉浦啓介は乾いた唇を舐めた。
「でも、波にさらわれかけた。それからだよな。お前が水に入れなくなったの」
ぎゅっと拳を握る。
その目には、後悔が滲んでいた。
「……悪かった」
杉浦杏奈は彼を見た。
表情はない。
前世の自分なら、このひと言だけで長いあいだ胸を熱くしていただろう。啓介は覚えていてくれたのだ、と。ずっと罪悪感を抱えていたのだ、と。
けれど今は、ただ滑稽だった。
そこまで後ろめたさがあるのなら、なぜ前世では、彼女がいたぶられて死ぬまで見殺しにしたのか。
何もかも知っていながら、何もしなかった。
なら、謝罪に何の意味がある。
「啓介」
杉浦杏奈は目を伏せ、傷ついたように声を落とした。
「もう昔のことだもの。気にしないで」
それは「許した」ではない。
ただ「もう心に留めなくていい」と言っただけ。
けれど杉浦啓介は、自分が赦されたのだと思い込んだ。杉浦杏奈はそういう娘だ。家族を本気で恨んだりしない、と。
「今日、屋敷には『スターファミリー』の監督も来てたんだ」
そう言って、杉浦啓介は一通の招待状を差し出した。
「松下浩史。お前が美雪を助けようとして飛び込んだのを見て、すごく心を打たれたらしい。姉妹の絆が深いって。二人で番組に出ないかって言ってる」
杉浦杏奈は招待状を受け取る。
そこには、はっきりと記されていた。
『杉浦家ご一同様 「スターファミリー」Season 3 収録ご招待』
『スターファミリー』。
その名前に、杉浦杏奈の記憶が冷たく蘇る。
数か月後、前世の彼女は杉浦美雪と一緒に、よく似たファミリー番組へ出演した。
大ブレイクしたのは、杉浦美雪のほうだった。
泣くのが上手かった。カメラの前で、最も効果的な瞬間に涙を落とすことができた。人前ではずっと、「嫉妬され、家族に疎まれる哀れな本物のお嬢様」を完璧に演じてみせた。
視聴者は彼女に同情した。
メディアは彼女を持ち上げた。
広告も、仕事も、次々と舞い込んだ。
一夜にして、彼女は誰もが守りたがる「国民の妹」になった。
その一方で、杉浦杏奈は番組の中で、嫉妬深く、意地が悪く、心の狭い令嬢として切り取られた。
ネットでは三か月にわたって叩かれ続けた。
そして『スターファミリー』は、いま最も勢いのある人気番組だ。
杉浦家が、娘を売り出す絶好の機会を見逃すはずがない。
――彼女自身もまた。
杉浦杏奈は招待状を握りしめた。
「いいわ。出る」
無意識に、親指と人差し指のあいだの傷を指先でなぞる。
じくり、とした痛みが、意識をいっそう冴えさせた。
前世では、杉浦美雪が彼女を踏み台にしてのし上がった。
なら今度は、全国の視聴者が見ているその前で。
杉浦美雪が丹念に塗り固めた仮面を、一枚ずつ、容赦なく剥がしてやる。
